早期退職、セミリタイア生活日記

静岡県三島市でセカンドライフを開始、伊豆を満喫しています

「復活してほしいもの」は 古き良き昭和のライフスタイル

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今週のお題「復活してほしいもの」

 

古き良き昭和のライフスタイル。

 

サザエさんのダンナさんマスオさんの勤める会社・・・昭和30~40年代だろうか?

携帯もパソコンもなく、デスクには黒電話、女性社員がお茶を入れてくれる。

昼休みには屋上でバレーボール。

 

母は昭和30年代の「ビジネスガール」で、仕事はお茶くみと電話取次ぎ、

書類整理くらいで、おしゃべりに明け暮れ、

日課長のおごりでケーキを3時のおやつに食べていたという。

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昔懐かしい電話機(島田市博物館展示物)

今の会社と違ってのどかで楽しそうな雰囲気。

ただし女性の定年は25~30歳、入社して数年で寿退社が当たり前だったという。

 

昭和42年生まれの私。そんな話を母から聞いて育ち、

大人になったら同じように働き結婚して子供を育てるのだと思っていた・・・。

私はバレーボール苦手だから、会社に勤められないのかな、なんて心配していた。

 

子どもの頃、家は買った時の倍以上の値段で売れるものと父は言い、

初めは小さな公団の団地から、何回かの引っ越しを経て、

横浜の郊外の新興住宅地に戸建てを買った。

(バブル期には地価上昇率が全国でもトップの方になった。)

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公団ウォーカーより引用(左近山団地 (boy.jp)

 

その頃は造成地がいっぱいあって、周りには田んぼや小川があり、

放課後によくザリガニを取りにいったなぁ。

 

小学校は児童数2000人超。

1学年10クラスくらいあって運動会の徒競走は延々と続いてた。

 

駅前の広大な空き地で夏の盆踊り、縁日の屋台が懐かしい。

そこは中学生の頃、工事が始まり、デパートになった。

 

町に1軒しかない喫茶店で「スパゲティナポリタン」、「ミートソース」を食べるのが楽しみだった。

初めてかけてみた「タバスコ」。こんな辛いモノとは知らなかった!

ミートソースをフォークにうまく絡めながら食べるのは難しく、

オトナな食べもののように感じていた。

テーブルの上には星占いのボールのようなものが乗っていたっけ。

 

小学生の頃、クリスマスやお誕生日には地下鉄に乗って都心のデパートに行き、

祖父母からプレゼントを買ってもらい、

食堂でお子様ランチと赤いサクランボの乗ったクリームソーダを食べるのが定番だった。

 

デパートのエレベーターにはエレベーターガールがいて、

「上へまいります」「6階、家具売り場でございます」って

きれいな声で言っていたっけ。

家の近所にはエレベーターがあるマンションなんてなかったから、もうワクワクだった。

 

そうそう、銀座線は駅に着く手前で消灯し車内が真っ暗になるんだった。

地下はエアコンが使えないから窓を開けていた。

 

今みたいに大量生産の安い服はなくて、

デパートで買ってもらった服を大事に着ていた。

洋裁が得意な親戚のおばさんに作ってもらったり、

セーターやマフラーを編んでもらっていた。

 

あの頃は、スマホもゲームも、エアコンも車も、コンビニもなかった。

でも今より、楽しく快適に暮らせていたのはなぜだろう。

 

大学生の頃、昭和から平成になり、バブル景気、

そして就職の直前にバブルがはじけた。

会社は成果主義能力主義となり、ギスギスした人間関係になった。

スピードと効率、果てしないサービス向上、競争を求め、

毎日が息つく暇もないような忙しさ。

努力しても報われない。

マスオさんの会社はどこにいったのだろう??

 

世の中に絶望し不満を持つ人が理不尽な道連れ自殺的な犯罪を起こす。

地震津波、洪水などの自然災害も増えてきた。

 

子どもの頃、思い描いていた人生や社会とは全く違うものとなっている。

 

もう一度、あの頃の不便で貧しいけど、昭和40年代頃の暖かい生活が復活してほしい。

 

 

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