早期退職、セミリタイア生活日記

静岡県三島市でセカンドライフを開始、伊豆を満喫しています

ベルリンの壁が崩壊してから30年

1990年6月、大学院生だった私は、近代史を研究していた妹に誘われ、半ば渋々、東欧に旅行に行くこととなりました。

1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、1989年12月にはルーマニアの共産政権が崩壊しました。この時期、「東欧革命」と呼ばれる社会主義政権の崩壊が各国で次々に起こりました。旅行に行ったのは、ベルリンの壁崩壊の約7か月後、1990年10月の東西ドイツ統一の約4か月前でした。

約3週間もの長い旅行で、モスクワ、ルーマニア東ドイツ、ウィーン、プラハを訪問しました。今思えば、何と怖いもの知らずだったことか・・・よく、無事に帰ってこれたと思います(若気の至り?)。

今のようにスマホもなく、東欧との国際電話もよくつながらない時代です。EUもないので、国境を超えるときは、日本から発行してもらったビザが必要です。

当時はまだ「ソ連」があり、アエロフロート航空で日本から出発しました。ソ連が崩壊したのは、その1年半後の1991年12月25日でした。

当時の日本はバブル経済最末期で、まだ豊かで華やかでした。西ベルリンやウィーンといった「西側」の国は、人々のファッションも洗練されていて、車や街はキラキラして、日本と同じ雰囲気でした。

一方で、「東側」の国は、人々のファッションも町並みもくすんで、すえた匂いが漂い、物は少なく、貧しい雰囲気がみえました。

退職後、写真の整理をしていたら、当時の写真がたくさん出てきて、東欧に興味がある人にとっては、貴重なものかもしれませんので、公開することにしました。

ルーマニア

成田からモスクワに行き、そこから飛行機でルーマニアに入りました。

1989年12月にルーマニア革命がおこり、共産党政権が崩壊し、民主化されました。その前にはチャウシェスク政権の治安警察による政治集会攻撃や銃撃戦があり、犠牲者が出ました。最終的に、チャウシェスクは処刑され、1990年5月に自由選挙が行われ、イオン・イリエスクが大統領になりました。私たちは、その直後に訪問しました。

首都のブカレストには、当時の銃撃戦の後が生々しく残っていました。市民がさかんに政治集会を開いていて、人々の服装もなんとなく貧しそうに見えました。

犠牲者を追悼する十字架

犠牲者を追悼する十字架

壁には銃弾のあとがみえる

広場で集会を開く人々

広場で集会を開く人々

選挙ポスター?

黒海に面した町スリナの民家

東ドイツ

ポツダム

1945年、第二次世界大戦で日本が降伏することになる「ポツダム宣言」を発表した場所を訪問しました。

写真は、会談が行われた場所、ツェツィーリエンホーフ宮殿です。現在はホテルになっていて、泊った記憶があります。宮殿内部は写真撮影が制限されているようですが、当時はなかったと思います。

ツェツィーリエンホーフ宮殿

ポツダム会談が行われた会議室

ドレスデン

1945年の第二次世界大戦の空襲で建物が破壊され、1990年当時もほぼそのままでした。その後、再建が進められたようです。敗戦後、45年間も壊れたままにしていたのは、原爆ドームのように遺産として保存したかったわけではなく、単に修復できなかっただけでした。

写真は、空襲で破壊された王宮とフラウエン協会(聖母教会)、2006年に再建されました。現在の様子はこちらをご覧ください。

街中の建物は全体に黒くくすんでいて、汚い感じです。おそらく、石炭を燃料にしていたからではないでしょうか。

空襲で破壊された王宮
止まっている車に時代を感じる

空襲で破壊された聖母教会(女子修道院

東ベルリン

首都ベルリンはソ連が統治する東ドイツ内に存在しますが、ベルリン市内が西側諸国(アメリカ、イギリス、フランス)の管理するエリアとソ連が管理するエリアに分かれていました。

東西ドイツの間の国境は1952年に閉鎖され、自由に行き来できなくなりました。西ベルリンに住む人が東ドイツを超えて西ドイツ側に行くには、高速道路か国境駅以外は止まらない直通列車または飛行機でしか、認められていませんでした。

ベルリン市内は敗戦後も東西自由に行き来でき、通勤や通学をしている人もたくさんいたそうです。ところが、敗戦から16年後の1961年8月13日に東西の境界が、突然、有刺鉄線で封鎖され、その後、壁が作られました。昨日まで、自由に行き来でき、友人や親せきが住んでいる町の境界が突然、封鎖されるとはかなりたいへんなことです。以来、28年間に渡って封鎖が続き、壁を越えようとして命を落とす人も多数でました。

日本でいえば、富士川を境界に東日本は社会主義、西側は資本主義となり、首都東京の23区内が壁で囲われるようなものです。

そんな状況が、私たちが訪問する約7か月前に突然、変わりました。

東ドイツ政権の広報担当者の失言がきっかけで、壁に市民が殺到し、ゲートを開放せざるを得なくなったため、壁が崩壊したそうです。

この旅行の半年後、1990年10月3日にドイツが統一されました。私が大学院1年生の時のことでした。

写真は1990年当時のベルリンの壁で、今は残っていないものです。

記念に壁を持ち去る人がたくさんいました

"Hello DDR"(こんにちは東ドイツ
西側の人が書いたのでしょうか。

"KOREA will be next!"(次は北朝鮮(?))

"Peace Love and HARMONY"
平和、愛、調和

落書きには、LOVE, PEACEといった言葉が多くありました。

壁の東側から西側を覗く

壁の内側の無人地帯
左側が東ベルリン側。東側から見て、有刺鉄線の向こうに常時監視カメラが作動している無人地帯
(中央にまっすぐ続く道のようなところ)、さらにコンクリートの壁がある。
その向こう(右側)が西ベルリン。

この壁を東側から超えるのは、大変なことでした。当時は、東から西への人口流出を防ぐために壁が作られました。今は、家賃の安い東に西側から移住する人も多いそうです。インターネットの普及で、住む場所を西側にしないと、仕事を得られないということはないようです。

東ベルリン側のアパート
右側が壁、道路のようにみえるのが、かつての無人地帯。有刺鉄線は今はない。

西ベルリン側の壁の落書き
上の写真と同じアパートを壁の西側から撮った写真。
西側にはもともと有刺鉄線はなく、壁に近づくことは可能なので様々なメッセージが描かれていた。

ドイツ統一の象徴のブランデンブルグ門は、1990年当時は修復中でした。分断当時は、壁の東側にあり、西ベルリン側からは近づくことができませんでした。30年記念のイベントでは、コンサートが開かれ盛り上がっていました。

修復中のブランデンブルグ

スロバキア

2013年、出張でスロバキアの首都ブラチスラバを訪れましたが、完全に「西側」と同じ様子でした。

EUになってから、ウィーンから税金や物価の安いスロバキアにショッピングにやってくる人が多いそうです。ウィーンからは車で約1時間、ドナウ川のフェリーでも2時間弱です。かつては、近くて遠い隣国でした。

ブラチスラバの町並み。「西側」の象徴であるマクドナルドがある(右側の建物1階)。

ドナウ川を運航するフェリーで近隣の国へ自由に行かれる。
高層ビルもたくさんみられる。

高速道路と高層ビル

この旅行から約30年の間に、テロが頻発したり、中東情勢が変化し、イラクリビアの政権崩壊、最近では香港のデモやイギリスのEU離脱など、大きな変化がありました。

今後の世界は、どうなっていくのでしょうか・・・。

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